妻や夫、家族がうつ病になったとき・・その行動を理解できるかどうかはうつ病の症状をちゃんと理解できているかということですよね。
その、どこかふにおちない行動はついついうつ病であることを忘れて相手の人間性を疑ってしまうのが家族としての自然な姿。
そう考えれば、うつ病なんだから仕方がないんだよと受け取ることは案外むつかしいことです。机上の論理では「人はうつ病になると判断能力や積極性が衰退してしまうから周りから見ればグズグズしてるように見えてしまうのはしかたのないこと」と理解できます。
でもね、日常の幾つものシーンで機械的に机上の論理をあてはめられるほど人の感情はおとなしいものじゃないんです。
「もういいかげんにしてくれよ!」
そういう感情は、頭ではわかっていてもつい不必要なひと言をうつ病患者に投げてしまったりもするんですから。
たとえばうつ病の妻の行動が理解できないとき。
外出先から帰ってくる時に玄関の手前で鍵を出し速やかに家にはいるようにするらしい妻の行動。それにはうつ病の妻ならではの理由があります。玄関の前でモゾモゾとカバンから鍵を出しているうちに隣の家人等に出会うことを避ける為なんですね。自分の心を守るために人目を避けるような・・・
いじらしくも馬鹿げた行動は理解できないでもありませんが、自分の家に帰ってきたんだから堂々と鍵を開けて入れば良いはずなのに、どこか人目を避け、どこか自分の存在を否定するような仕草は、見ていて理解できるとも嫌気が差すとも・・僕としては微妙な感覚に陥るわけです。
妻は二人の子供を実家にあずけました。理由はひとつ「しんどいから」
外出先から帰宅するときは人目を気にするくせに、うつ病でしんどいからと子供を実家に預けようとするときはさっそうとげんかんを出て行く姿に、僕は彼女の論理が理解できなくなる場合があるんですよね。
そうして、理解できない気持ちは、いったいどうなってんだよ?なんてイライラする気持ちにリンクします。だからって、僕には仕事があるし、子供の面倒をみることはできない。
そんななか、職場にいる僕に妻からのメール。
「一人で買い物にいけたよ」
「よかったねぇー」
こんなやりとり・・・健康な人にしてみれば、理解できない内容ですよね。買い物に一人で行けたことがそんなに達成感のあるできごとなのか?
理解できないと思うんですよね。
しかし、小さな「できた」も彼女にとっては大きな達成であることは事実なんですよ。逆に、家に入るときに他人に存在を知られたくないと本気で思うことも彼女には切実な問題なんですよ・・・。うつ病患者を理解するということは、相手の視点になれるかどうか?かもしれません。
うつ病の妻の行動を正しく理解できるためには知識的にうつ病患者の特性を理解することは基本なんですが、個別の生活状況に応じた幾つものエピソードのなかで、ひとつひとつ経験的に理解していくことなんでしょうね。