うつ病患者と家族の距離感。
病状による不安感や焦燥感に包まれたとき、うつ病患者には家族との適切な距離感が必要ですよね。心理的に距離を測る?ような、うつ病患者の態度は、家族の目にはこんなふうに映るときがあります。
距離をとるために、あまりにも身勝手で家族の気持ちなど完全に無視している。
逆に、距離を縮めるために「試されるような」言動を受け取る。
そして、家族側からするとなんだか仕掛けがあるような言動であっても、実はうつ病患者には家族を試すほど心が元気で器用ではない。
グッと踏み込んできて欲しい領域。
それ以上は、踏み込んで欲しくない領域。
そんなもの、いくら家族とて、患者の心を読み通して完全完璧に100点満点の心の距離感を保つなんて「できるわけがない!」のであって、例えばそういう事態が重なって病気が良くならないのはあなたのせい。
なんて言動に出くわしてしまっても、絶対に家族は、患者に対して無力である自分を責めたりすることは間違っていると思うんですよ。
家族が患者との一悶着と感じていても、患者は病気と本来の自分との間で挟まれてしまってる苦しみの渦中なんですから自分が家族に浴びせた罵声など、あんまり記憶してませんし僕等家族の立場としても丁度いい距離感とは?なんて策を講じるよりはむしろ、如何なる時でも異常な心理状態に対して“何故?そんな態度をとってしまうのか?”っていう“理解力”を保持してゆくことが大切な部分であると思うんです。
この理解力を保持し続けることがいかに困難なことであるかは多分、誰しもが頷ける点であると僕は思うんですが‥‥。
僕としても妻の身勝手な言動に対し、愛情という言葉は影を潜め‥‥遂には患者から家族にではなく、家族が患者に対して敵対心を持ってしまった日々も幾度と無くあったんですが、何度同じような状況を迎えても絵に書いたようにサラサラとかわす事は簡単なことではないと感じてしまいますね。
うつ病が言わせる暴言をかわし、その裏側にある患者のSOSだけをしっかりと受け止める!
難しいんですね。これって‥‥。身内だから余計に、そして愛する家族であるからこそ、さらに難しい。
何らかの機会にマニュアル的な接し方論が目に触れたり、実際に何らかの精神病患者の家族向けの地域セミナー等で単発的に理解できても、それをずっと個々の生活環境の中で起こりうる千差万別の嵐の中で理解を保持することの難しさは相当なものですね。まさに、仏の心?。
患者も家族も、愛情という存在が在り得る距離感を保持することが如何に難しいかというのは、気分障害に属する精神障害等々が原因による離婚、別居、それに近似する家庭崩壊への進展率の高さが物語っていますしね。
だからある意味では、ゴールが見えぬ長期的な闘いであるが故に様々な意味で人生を破壊してしまうパワーをもつ心の病気 に、遂に破壊されてしまうケースがあっても僕は‥‥正誤の範囲を超えたひとつの人生観であり再出発のスタートラインでもあると思うのであります。
だから、うつ病発症という家族の非常事態を迎え入れてしまった以上、家族は苦しくて当たり前。
そして患者は、もっともっと苦しいのがこの病気。
さらに自殺という結果を踏まえればなんと死亡率の高い病気であることか……
楽に、うつ病を治す?
そんな方法あるはずがないでしょ?だからこそ、家族が互いに愛とは何か?を考え、絆とは何か?と苦悶し、もとはあかの他人であった個人が今、こうして共に人生を歩んでいる奇跡に対して実直に向き合うこととなるんですから。
ただ、あんまり、苦しくて当たり前なんて言うと、少し大袈裟ではありますが。実態に対する考え方は別として、気の持ちよう的には苦しくて当然なんてのは駄目ですね。
うつ病患者に対する、支える家族としての心の距離感。
それは、相手の死ぬほど苦しいその気持ちを少しでも一緒に苦しんであげれる家族の気持ち。そして、苦しい理由を素直に理解し受け止めてあげれる心。
丁度いい距離感から、それらの気持ちが生まれてくるものではなく、それらの優しい家族の気持ちが二次的に作り出すものが、丁度いい距離感であると思うのであります。
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